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開山上人

疾病流行と百萬遍おねんぶつ

当淨國寺を開かれた杲蓮社團譽上人正阿囧無大和尚(こうれんじゃだんよしょうにんしょうなけいむだいかしょう)は豊後国の住人大蔵朝臣の子息にて出家修学の後、筑後(久留米)現大本山善導寺の第二十六代、さらに川副南里の正定寺第十六代となる。然るに当寺は元来法相宗の一草庵であった。そこに蓮池藩主甲斐守鍋島直澄公の請せにより天正年中に改築・改宗し蓮池山古今院淨國寺と改称、團譽上人の守護佛たる聖徳太子一刀三礼の作名に成る一光三尊阿弥陀如来を本尊と称したる。杲蓮社團譽上人正阿囧無大和尚は寛永十八年三月二日に円寂される。

 

さて、浄土宗に改修された所以は次のとおりである。その当時藩主御領分周辺では疾病が大流行していた。甲斐守直澄公は自分の領内にも及ぶのではと心痛一方ならなかった。そこで平生から帰依の深かった先述の当時南里の正定寺薫職なる第十六代團譽上人へ(疾病退散・平癒・禍が起きないことなどを)懇請された。

團譽上人は早速百萬遍(お念佛精進厳修)を勤めた。

その結縁によってか、預かった御領内民衆への疾病波及は不思議とおさまり、領民はこの大難を免れた。

領主直澄公は佛力德益の不思議さをまさに目の当たりにしこれに感銘を受け、元々あった法相宗の草庵を改築、そして團譽商人の住する正定寺と同じ淨土宗に転宗・改宗となったのである。

 

次に常蓮社行譽上人廣阿圣眞天山大和尚について。

この上人は当淨國寺の第十五代洞譽順豊上人の徒弟で僧名を当初仙豊と称し、後に天山と改称した。明治初年先の正定寺に住し、その帰依有るものの布施、田地壱反八畝二十三歩、畑に畝十五歩をもって淨國寺へ住した。

明治三十三年五月、茨城県筑波郡小田村解脱寺へ移住となる。

大正十四年は上人の二十五回忌にあたる。

水が流れる庭園

フォト

​歴史のなかに

桜の花

安樹院殿墓石

移転後

窓から臨む紅葉

安樹院殿 お位牌

本堂内右

奥社へ続く千本鳥居

成富椿屋さんのお墓

成富家墓石左

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